上映日誌

上映日誌 イメージ写真

【批評】自分に正直な時間 Resurrections vol.1-第3回

2018年批評誌『Resurrections vol.1』から第3回目、久保田 桂子さん(映像作家『記憶の中のシベリア』)にご寄稿頂いた批評を掲載いたします。

自分に正直な時間
久保田 桂子(映像作家『記憶の中のシベリア』)

 試写会の帰り、渋谷駅に向かう道中のあらゆる場所で工事をしていて、作業服の警備員を見るたび「ああ、映画の続きのようだ」と、歩きながら自分がひどくぐったりしていたのを思い出します。
 “自分に正直に映画を作る”という木村さんの言葉の向こうには、自分の今まで出会ってきた人、周囲の物事を、もう一度ひとつひとつ手繰り寄せて自分の中で向き合い、なんとかギリギリのところで自分も相手も肯定するような、ぞっとするような苦しい作業があったのだと思いました。私自身に引き寄せて、上京してからの自分を振り返る時に、無意味な感情と時間の沢山の浪費、特に震災以後の社会に対する無力さにただ流されてきた中で、周囲と自分を肯定する、なんとかそこで踏ん張ろうとするのは、自分にとっては苦しい。でも、主人公達の疲れきった重い足取りにやはり私は少し救われる感じもしました。
 映画の細部の危うさやどぎつさに戸惑ったり、なにより全体を貫く目に見えない気迫のようなものにあてられて呆然としてしまったのですが、一方で映画の外側で私自身の記憶、大学時代に大切な友人が自分の信仰の施設に誘ってくれたことや、ドキュメンタリーを作っていた時に出会った、ソウルの新興宗教の施設に暮らしていた方のことを思い出しました。大きな広間で韓国語の歌が響く中、私はひどく混乱していて「結局形は違うだけで、ここにも日常と寂しさがあるだけなんだ」と思いながら、行き場のない人のセーフティーネットとしての宗教組織を、肯定する気持ちと同時に反発する気持ちが湧き上がったことがリアルに思い出され、映画の前半はゼエゼエと息切れするような気持で見ていました。
 常に所在なさげな則夫の佇まいや、他人(母、男性、主人公)の欲望を投影させられた儚い像のような慈に時々少し息苦しさを感じながら、彼らは今まで自分の時間を生きたことがどのくらいあるのだろう、とふと気になりました。彼らがその後、自分の人生の時間を作り出せるのか、また別の時間の中で流されていくのか。とにかく、まだまだ続くんだ、と、ぐるぐると考えながら、渋谷の道を歩いていたのを思い出します。